LEGENDS & LEGACIES
伝説と遺産
K・パッタビ・ジョイスと B・K・S・アイアンガー
写真: マイク・ヒル
会話翻訳: スナード・ラグラム
この記事はNAMARUPA issue no.4に掲載されたものです。
NAMARUPA共同発行人であるエディ・スターン
およびロバート・モーゼスの同意のもと翻訳・配布しています。
日本語翻訳: 宮村 葉
1934年、当時まだ若者だった K・パッタビ・ジョイスと B・K・S・アイアンガー。2人ともに、非常に厳しく、そしてそ 後伝説的なヨギとして知られることになる T・クリシュナマチャリヤ弟子だった。当時インドまだイギリス統治下に あり、マハラジャ達がまだ州長として特権を保持していた。マハラジャ達威光や壮麗さ当時まだ現実も であり、愛する郷土伝統を継承し保護すること、外国統治下にありながらも彼ら最重要事項とされていた。 マイソール州マハラジャ、クリシュナラジェンドラ・ヴォデヤル特に古代サンスクリット語テキスト保護と研究 に尽力し、伝統的なアートや音楽そしてヨガに愛情を注いだことで知られている。重要な伝統祭礼ドゥッセラーを盛大 に行うなど、古くから伝統儀礼や生活様式を概維持しながら、マイソール住人清潔で便利な町で日々を暮 らしていた。こような雰囲気中、若い2人当時マハラジャ庇護下にいたクリシュナマチャリヤからヨガを学 んでいたである。
パッタビ・ジョイスマイソールに残る運命にあったが、クリシュナマチャリヤ1954年にマドラス(現在チェンナ イ)へと移って行った。そしてスンダラージャ・アイアンガー「そこでヨガを指導するように」という師命令以外ほと んど何も持たず、1934年インド中央部プーネへと送られただった。アイアンガープーネに留まり指導と修練 を続け、マイソールに残ったパッタビ・ジョイスサンスクリット大学へと通いながら修練を続け、そ後そこで指導に あたることとなった。そしてこ兄弟弟子達1940年まで再び会うことが無かった。2人ともそ再会についてあ まり覚えていないようだが、それがクリシュナマチャリヤヨガ・プロモーション・ツアー最中であったこと記憶して いた。クリシュナマチャリヤがパッタビ・ジョイスと共に、プーネにあるスワミ・クヴァラヤナンダが主宰するカイヴァリヤ ダーマ・ヨーガ・インスティチュートを訪れた際、短期間だがアイアンガー家に滞在したである。 そして歳月が過ぎ、何千年も数え切れない年月をインドでひっそりと受け継がれてきたヨガが、1960~70年代頃 初期探求者マダム・ブラヴァツキーやヴィヴェーカナンダ等発言をきっかけに、野火ような勢いで世界中に 広まり始めた。それにつれパッタビ・ジョイスとアイアンガーも、徐々にヨガ実践者間で高名な存在になったが、19 40年に共にコーヒーを飲んで以降、2人が再び会う機会巡って来なかった。
そして2005年、2人が最後に会ってから65年後、アイアンガーが87歳になりパッタビ・ジョイスが90歳誕生日を 迎えた直後、私達時代ヨガに最も影響を与えた二人、ついに再会を果たすこととなった。歴史的な訪問こん な会話で幕を開けた。
「もしもし?」「パッタビかい?スンダラジャだよ!」 2人それぞれ彼ら生徒達から指導者として畏怖される存在だが、電話会話まるで兄弟ようで、そこに 親しみ雰囲気だけが溢れていた。
再会にぎやかなもとなった(アレキサンダー・メディンコーディネートで実現)。 アイアンガーゲストとして招 聘されていたタムクルでヨガフェスティバルから、車で4時間をかけてやって来た。フェスティバル当日、スピリ チュアル・リーダーが生徒達に呼びかけを行う日とされている「グル・プールニマー」だった。フェスティバルでそ呼 びかけ勤めを果たすため、アイアンガーパッタビ・ジョイス90歳誕生祭へ参加することが出来なかった。し かしタムクルからゴクラムまでそれ程遠くないため、そ後車で訪問が実現しただった。6人生徒と秘書 ラグーとともに、アイアンガー午後1時頃ゴクラムに到着した。2人ヨガマスターが抱き合いカンナダ語でにぎ やかに話始めると、居合わせた人々顔に笑顔が広がった。カルナタカ出身(カルナタカでカンナダ語がもっとも 話されている言語)アイアンガー生徒1人、「グルジいつも『カンナダ語よく解らない』と私におっしゃ っていたですが。見てください!流暢にお話されてます!」と話した。
まず全員にコーヒーが振舞われ、そ後隣部屋へ場所を変えると、1940年以来じめて2人食事をともにした。 こ再会ために、パタッビ・ジョイス娘サラスヴァティにが特別な食事を用意していた。食事後 AYRI(現 KPJAYI)共同ディレクターである孫シャラートが全員を階下ヨガ・シャラへと案内すると、アイアンガー生徒マ ダーヴァが質問を始めた。
マダーヴァ(以下 M)「ヨガを学び始めた当初、ヨガがこように広まると思われていましたか?」 パッタビ・ジョイス(以下 KPJ)「全然。全くだよ。少年頃にクリシュナマチャリヤ師がヨガデモンストレーションを 行ったを見て、それらポーズに魅了されてしまった私、翌日クリシュナマチャリヤ師を訪れると、彼前にひれ 伏して生徒として連れていってくれるよう懇願した。するとクリシュナマチャリヤ師ぶっきらぼうに私が誰かと聞いた。 とても怖かったよ。そしてどこから来たか、父親誰なかと聞かれた。私5マイル先コウシカ村からやって 来たこと、私父占星術師で司祭であることを話した。するとすぐにクラスに出るようにと言われたで、私頷い て『い』と答えた。翌日からクラスに出席し始めて、そ初日からすぐに引っ叩かれ始めたよ(大笑)」 M「何故やめてしまわなかったですか?」
KPJ「何故?学びたいという大きな情熱があったからだ。」 M「もし私があなただったら、とっくに逃げ出していたと思います。」 KPJ「そうかな?さっき言ったとおり本当に『学びたい』と思っていたんだよ。ガルーダとハッサン・ランガスワミーとい う2人友人を覚えている。私達みんなで学んだ。(アイアンガーに向かって)ガルーダを覚えてるかい?」 B.K.S.Iyengar(以下 BKS)「もちろん覚えてるよ。」 KPJ「1932年にマイソールマハラジャが、自分もとで指導をするようクリシュナマチャリヤ師を招いた。師ジャ ガン・モハン・パレス近くにヨガ・シャラを開き、私達そこで練習をしていた。教育部責任者が…彼名前を忘 れてしまったな…何という名だったか…N.S スッバラオだ!彼クリシュナマチャリヤ師給料計算など、全てを担 当していた人で、そ頃ヨガを教えて広めるよう、いろいろな地方役所などに師を派遣していた。1932年にクリ シュナマチャリヤ師がサンスクリット・パタシャラ(大学)に再び来た時、師前に進み出て礼拝すると『おお、君じゃな いか!』と言われたで、『そうですグルジ。私です。ここで勉強しているんです』と答えた。嬉しそうだったよ。そして また師もとで学ぶ機会を得た。私と私友達マハデヴ・バート時々パレスに招かれて、ヨガデモンストレー ションを行った。ある時お礼に5ルピーとハヌマーン・カッチャ(下着)をいただいた。とても嬉しかったよ。(アイアンガ ーに向かって)ところであ女性こと覚えてるかな?アメリカから来たインドラ・デヴィ?彼女もパレスヨガ・シャ ラにプラクティスに来ていた。」
BKS「うん、うん、覚えている。彼女がインドラ・デヴィと名乗るようになった、ずっと後ことじゃなかったかな。」 KPJ「最近亡くなったと聞いたけど…」
BKS「ブラジルで。」 KPJ「そうかブラジルで。一つことが次々に繋がっていく。我々そこで練習をしていた。マハデヴ・バート、シュ リニヴァス・アチャール、ランガナート・デシカチャー、他にもたくさん。」
BKS「そう。全員覚えているよ。」 M「今で5ルピーよりもっとたくさんお金を得るようになられましたけど、あなたにとってマハラジャから渡された5 ルピー、さぞ特別だったでないかと思います。どちらにより価値があるとお考えになりますか?そ5ルピーと、 現在得られている収入と」 KPJ「そうだ、そ5ルピー本当に本当に特別なもだった。そお札トランク中に、衣類束下にしまっ ておいた。毎日トランクを開けてそれを取り出して眺めて、また衣類下にしまっていたもだよ(笑)。私それま で1ルピー札を見たことが無かったんだから(笑)!そ頃そういう生活だったんだよ。」
こうして現代伝説2人、素晴らしい昼食とカジュアルな思い出話、そして写真撮影を行うと再び階上にあがった。 そ後午後コーヒータイムが始まり、会話自然とコーヒーについてもとなった。アイアンガーによれ、コー ヒーこ暗黒時代「カリ・ユガ」「ソーマ・ラサ」=「反道徳的な中毒性液体」である。「まさにそうだ。それに最 近で、さまざまなブランド『ソーマ・ラサ』をお店で手に入れることができる!」とパッタビ・ジョイスが笑った。
午後時間飛ぶように過ぎ、アイアンガー出発時間が近づくと、会話再びクリシュナマチャリヤについて もになった。 BKS「誰が何と言おうと我々師功績確かなもだ。彼知識大海ようで、そ知識全てを我々が引き 継いだと言えないだろう。豊かな知識持ち主だったが、ほん少しをこちらに、今度あちらに、というやり方だ ったから、私達鶏がえさをついむように、師知識をあちらこちらから拾い上げなけれいけなかった。そして私 達それぞれに学び、そ学びをそれぞれ形に育てあげた。だから皆さんへアドバイス、クリシュナマチャリ ヤ師直弟子によって点された、消えない『灯り』を見つけるということ。そして、こ彼教えという『ヨガ・ディーパ (ヨガ灯り)』を絶やさないようにしなけれいけないということだ。プラクティスを継続して、『灯り』を燃やして燃や して燃やしつづけることが大切だよ。」 KPJ「師私達を日に焼かれた石中庭に何時間も立たせ続けた。そ時に、ヨガがどういうもなか我々理解 し始めたんだよ!」 BKS「もう少し付け加えてもいいかな?100%額に汗しなけれならない。身体だけでなく知的な面でも。そうして 100%励んだ時にヨガというもが少し解るようになる。身体も100%頭も100%、全身全霊をかけなけれならな い。知識も同じことだよ。」
素晴らしい日に終わりが近づくにつれ、二人偉大な人物が一つ場所にいるということ、そ事実に対する感動と 興奮を我々静かに感じるとともに、心から感謝していた。ヨガ、いわゆる「流派」違いについて批判を繰り返し てきたこれまで年月、二人がコーヒーを共にした瞬間、意味を成さない雲や霧ように蒸発し消え去ったようだ った。少なくともパッタビ・ジョイスとアイアンガー 2 人とって、お互い久しぶりに再会したヨガ兄弟弟子にすぎな い。アイアンガーが言うように。「1934年に出会い、2005年に再び出会った。私これを本当に稀な栄誉だと思 う。」
実践方法違い、スタイル違い、哲学や意見違い常に存在し、しかしそれ些細な問題でしかない。互いに 尊重しあい友情を築くことこそがインド伝統であり、人々から多大な敬愛を受ける二人底流であった。